Ad astra abyssosque

てきとう。

隣の文学畑は文学的に青い

 ロベルトボラーニョという作家の小説を読んでいて、彼の小説には「戦争」や「悪」あるいは「そういった不可抗力に虐げられた人々」というテーマが底流として流れていることが多いと気付かされる。それらは結構生々しく立ち現れる。しかし書きぶりは割とポップで、僕と同年代の若者が書いたものであるかのような、永遠に終わらない青春を追いかけている人間のものであるような文体はキャッチーにすら感じられる。
 翻って彼の出自を軽くさらうと、彼は二十世紀後半の人間で僕よりも数世代上の人間であり(まだ生きていたら七十近いはずだ)、チリの生まれでメキシコで暮らし、それからスペインに居着いた。南米には血生臭い歴史があり彼はそれを肌で感じていたし、実際、チリクーデターの際に投獄されて命の危機に瀕した経験があるらしい。

 僕はうらやましいなと思ってしまった。

 日本に住む平凡な人間の僕からすれば、ボラーニョは何かファンタジーの住人のようにすら感じたのだ。ほとんど地球の裏側の住人で、吐き気を催すような邪悪さと肌を接しながら生き、それでいて由緒正しき「お文学」と袂を分つことなく読み続け書き続けむしろ愛し続け、ガタがきた自らの体の余命と向き合いながら(事実、彼の代表作は臓器不全で寿命を告げられた後にまとめられたものであるらしい)作品を書き続けた彼は一種のロックスターか何かのようにすら見える。実際彼は近しい仲間内からも「歳をとってなお、既に死んだと言われる文学という分野で狂信的に読み書き続けるクレイジーな、しかし愛すべき同胞」みたいな評価を得ていたらしい。関係ないが、チリは「石を投げれば四人の詩人志望者に当たる」とボラーニョが言うほど詩人の卵が多いらしい。

 でも変な話、僕も僕で卑屈なのだろうなとは思う。彼の生き様に比べて、日本は何か生ぬるくてスカスカな空間に感じてしまっていたのだ。本当にスカスカかというとたぶんそんなことはなく、サリン事件だってあったし少子高齢化もあるしデフレスパイラルだのなんだの色々あった。マルクス主義のための戦争やメキシコの犯罪組織はなくても、赤軍の系譜や経済的な裏構造はいくらだってあるだろう。興味本位で啓発セミナーに参加してみたこともあるがかなり香ばしかった。日本人だっていまだ何か感情移入できる自分のための物語を求めている人は大勢いて、それなりの激流がいくつもあるのだろう。

 ボラーニョと同じような二十世紀後半の南米的世界観はここにない。でも、厭世と諦念を気取って目を閉じたくなるような二十一世紀前半の日本的世界観はここにあるのであって。二十世紀後半に生きたチリ産のロマンチックポエマーが見た景色は見ることができなくても、僕らの目の前にある景色は見ることができる。でも気分が乗らない。そういう気分も含めて目の前の現実なんだろうなとは思う。僕らはなぜかルネサンスでもアステカ文明でもソ連でもなく現代日本に生まれたのであって、ここでしか見ることのできない景色を見ることができる、はずなのだけれど。